パチンコ屋で出会った人から聞いた深イイ話【祖父母に育てられた俺は・・・】

https://ganbulingaddiction.com/2021/09/10/another-story/(新しいタブで開く)依存症体験記

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俺は地方の田舎町で祖父母に育てられた。

なぜ、両親がいないかを最後まで教えてもらう事は出来なかった。

田舎の環境もあったせいか、その事でいじめを受けたり、嫌な思いをすることはなかった。学校の生徒も少なく、学年も関係なく兄弟のように、上の学年の生徒とも下の学年の生徒とも遊ぶような仲になっていたので、一人っ子の俺としては、寂しい思いをする事もなかった。

友達の家に行っては、おやつを貰ったり、昼ご飯をご馳走になったり、友達の両親とも会話をする事が多かったので、自分を育ててくれている祖父母が、他人の両親と何か違うという事を感じることはなかった。きっとそれだけ、祖父母は親のように俺に接してくれていたのだろう。ただ、友達の両親よりも年を取っているという事ぐらいが、違いとしてあったように思える。

祖父母は農業を営んでいたが、二人だけでやっている仕事で、裕福な生活ではなかった。機械を使えば楽になるような作業もあったが、そんな高い機械を入れるお金もなかったようだ。

朝から日が暮れるまで畑で仕事をする祖父母は、年のせいもあるのか、夜には疲れ切った姿でいた。慎ましい生活で祖父母が贅沢な食事をしたりする姿は一度も見る事はなかった。

祖父はタバコを吸うこともなければ、酒を飲むこともなかった。何か趣味があるわけでもなく、好きな食べ物も聞いたことがない。祖母も同じように、幼い頃の俺を何かといえば抱きしめてくれる事以外は、祖父と変わらなかった。

休みもなく、雨の日も風の日も仕事をしていた。祖父母とどこかに出掛けた思い出は指で数える程度で、記憶は断片的にしかない。懸命に働く祖父母を見て、手伝いをしようとすることもあったが、
そんな俺に祖父母は、

「お前は勉強しなさい。勉強が終わったら遊んできなさい。」

と言って、仕事の手伝いをさせてもらえることはなかった。

今思えば、いずれ自分たちはいなくなり、誰の頼りもなく、この世の中で生きて行かなければならない俺に、せめて、勉強だけはさせてあげたいという祖父母の優しさがあったのだと思う。そんな優しさを感じて、俺は全力で勉強し、全力で遊んだ。そして、せめて家の中の事は手伝わせてもらおうと、風呂の掃除と準備、三人の布団を敷くことは積極的に行った。祖父がお風呂を出た後、

「ああ、今日の風呂も気持ちよかった」

と独り言のように言う言葉が、俺への労いの言葉だった。昔ながらの人なのか、素直にうれしい気持ちを表現できない祖父を見て、俺は祖母と目を合わせ微笑むという事が毎日の習慣となっていたのだ。

そんな日常に変化が訪れたのは、俺が中学2年の時だった。

祖母が病気で倒れたのだ。祖母の体はガンに侵されていて、余命は半年という宣告だった。医師は、これまでに体に異常を感じていて、きっと痛みもあったはず、なぜ、もっと早く病院に来なかったのかと言っていた。医師の話を聞く祖父の横で、俺は呆然と立ち尽くし、

「ずっと、我慢していたに違いない…」

そう思うと、胸が締め付けられるような気持ちでいた。

すぐに入院した祖母であったが、自分の体の事よりも、祖父や俺の事、仕事の事を気にしていた。俺は祖父に願い出た。

「勉強もちゃんとやるから、仕事を手伝わせてくれ」と。

その真剣さが伝わったのか、それから祖母の代わりに仕事を任せてくれることになった。それでも祖父に掛かる負担は大きかったに違いない。いつにも増して疲れ切った姿を見る事が多くなっていた。

俺は学校が終わると祖父の手伝いをして、その合間に祖母のお見舞いに病院へ足を運んだ。着替えなどを持って病院へ行き、大部屋にいる病室のカーテンを開けると、寝ている祖母は嬉しそうな顔をして、上半身だけ起き上がらせていた。

近況を報告する俺に祖母は苦しい素振りも見せず、いつものように微笑んで聞いてくれていた。後から知った事だが、祖母はガンの手術を拒否したそうだ。家計の心配をして、病気を自然に任せ、寿命が尽きる事を選んだのだろう。だから、俺と会う時もこれで最後かもしれないと気持ちで、苦しい姿を見せまいとしてくれたのだ。

祖母が亡くなったのは、入院してから3カ月が経った頃だった。

医師の宣告よりも早い事に戸惑いを感じたが、それは祖母が望んだことだったのかもしれない。俺が見えない所で痛みや苦しみがきっとあったに違いないが、亡くなった祖母の顔はとても安らかで、生きた姿がそのまま表れているようだった。祖父は、祖母が亡くなったその日の夜はなかなか床に就かず、縁側に腰をかけて、いつまでも夜空を見上げていた。

「お父さん、風邪引くよ」

そう声をかけると、

「ああ、もうすぐ寝るよ」と言い、

その日の祖父の背中は今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。

祖母が亡くなった翌日には火葬の手続きをした。お葬式は開かなかったが、火葬場には近隣の人たちや知り合いの人たち、学校の先生までもが手を合わせに見送りに参列してくれた。学校の先生が、

「気を落とすなよ。お前みたいな子供がいてお母さんは幸せだったはずだ」

と言葉をかけてくれた時、俺は堪えてきたものが一気に耐え切れなくなり、嗚咽した。先生はそんな俺を力強く抱きしめ一緒に泣いてくれた。学校の先生もまた、俺が育つ環境を気にかけてくれる立派な大人だったのだ。

火葬が終わり、自宅への帰り際、祖母のお骨を持つ祖父の後ろを歩いていると、祖父は顔を少しだけ振り返らせ、

「お前は高校に行け。いい高校に行くんだぞ」と呟くように言った。

中学を卒業したら、祖父の仕事を助けるために、高校には行かず働こうと思っていた俺の心を見通すように、その言葉は強く胸に響いた。

それから、祖父との二人だけの生活が始まったが、祖父は必要以上に仕事を任せてくれる事はなく、
いつものように勉強しろと言い、俺が準備をした風呂から出ると、二人だけなのに、今日も良い風呂だったと呟いていた。

中学3年になると、学校では進路の話で持ち切りになった。そのまま、地元の高校に行く友達もいたが、地元を離れて進学する事を考えている人間もいた。

俺は担任の先生に何度も相談しながら、自分の進路をどうするか悩んでいた。

本当は高校には行かず、祖父の仕事を助けたいという気持ちが強かったが、祖父はそれを許してくれることはない。悩みぬいた末、俺が決断した事は夜間高校に進学することだった。

昼間は働き、夜間に学校に通い、働いたお金を貯めて大学に行くことを目指すという計画だが、それは表向きで本当の意図は、昼間働いて得たお金を祖父に仕送りしようと考えていた。それならば祖父も納得するだろう。だが、一つ問題だったのは、地元に夜間高校がなく、条件が合う所に進学する為には家を出ないといけないことだった。生活費を切り詰める為にも、寮が備えられている高校を選ぶ必要もあった。

それでも、担任の先生は親身になって相談に乗ってくれて、俺の考えに賛成し、条件に合う高校も探してくれた。祖父にも丁寧に説明しくれたおかげで、誰に反対されることもなく、俺の進路は決まった。気がかりだったのは、祖父の健康だけだった。俺が家を出れば一人で生活をしなければならない。若くはない体で一人だけで大丈夫だろうか、そんな俺の気持ちを察してか、祖父は、

「一人なら仕事を減らすだけだから心配ない」

と言って、俺の迷いを断ち切ってくれた。

月日が流れ、中学を卒業すると、俺は夜間高校に進学するための準備に取り掛かった。寮への入居も無事に手続きをし、大きな荷物もなかったが、自分が持っていく物をまとめたりした。祖父は何事もないように、いつもと同じようにしていたが、俺が家を出る前日の夜は、いつもと違っていた。

「ちょっと、外の風にでもあたるか」と俺を誘い、二人で縁側に腰をかけた。

何か特別な会話があったわけでもない。俺の本当の両親について打ち明けられる事でもなかった。ただ、二人で澄んだ夜空を見上げ、ありふれた話を少しするだけだった。そして、

「明日早いだろ。先に寝ろ」

と言った祖父は、俺が床に就いた後もしばらくは縁側に腰をかけていた。その背中は、祖母が亡くなった日の夜と全く同じように見えた事が不思議だった。

翌日、俺が起きると、既に祖父は起きていろいろと支度をしていた。俺は事前に調べていた電車の時間に合わせ家を出る支度に取り掛かった。

自宅から電車の駅までは歩いて1時間ほどかかる。荷物もあることから、祖父は俺を見送りに駅まで一緒に行くと言う。大変だから大丈夫だと遠慮する俺の腕から荷物を取ると、祖父は家を出て先に歩き始めた。

慌てて後を追い、祖父の横を歩くと、いつの間にか俺は祖父の背丈を超える身長になっていた事に気付いた。歩きながら、大変な思いで俺を育ててくれた事に感謝の気持ちで一杯になり、亡くなった祖母の事も思い出しながら、駅までの道のりで俺は今までの思い出を振り返っていた。

駅に着くと、電車が到着するまで僅かな時間があった。別れの寂しさで、どう言葉を伝えていいか戸惑う俺に祖父はすっと封筒を差し出した。

「手紙が入っているから電車の中で読んでくれ」

それを受け取ると同じ頃に電車が到着した。別れの言葉を上手く伝えなれない中で電車に乗り込むと、俺は、

「休みの時にまた来るから!」

それが精一杯の言葉だった。今考えれば、もっと伝えるべき言葉があっただろうと思う、人生で悔いがある事を挙げるなら、その時の事しかない。電車が出発すると、見えなくなるまで駅のホームで見送る祖父の姿があった。

車内の席に座ると、俺は封筒を開けた。そこには手紙と通帳が入っていた。手紙には

「体に気を付けて頑張れ。」

とだけ、無骨だが力強い字で綴られていた。

通帳を開けると、そこには俺の名前で何年にも渡って、少ない金額ながらも定期的に貯金をした記帳がされていた。

祖父母は俺の将来を思い、大変な生活をしながらも、僅かに余ったお金を貯金してくれていたのだ。

俺は祖父母の深い愛情を感じ、溢れる涙を抑えることはできなかった。

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