【前回の内容はこちら↓】
パチンコ店に出入していた晩年に感じていた事は、「パチンコ・パチスロをやると精気や活力が落ちる」ということだった。
これは、借金やギャンブル依存症に陥っている自分だけのことなのかと思っていたが、よくよくパチンコ店にいるまわりのユーザーを観察していると、他の人も同じような状態ではないかと思えたのだ。
目がトロンとし、声がかすれ、覇気がなく、顔の血色もドス黒い色に変色していく。
勝っている時は良いが、負けこんでいるとこれが顕著で、朝とは別人のようになっている常連などもいた。
私が最も記憶に残っているのは、時々、打ちにいっていたパチンコ店で毎度のようにCR北斗の拳-剛掌-でドル箱を積み上げていた年配のユーザーだった。
その人は、独自の理論があるのかあるいはオカルト打法なのかは定かではないが、毎日のようにCR北斗の拳-剛掌-のみのデータを取り、ある履歴の台のみを1,000円だけ打つカニ歩き打法であった。
所謂、谷村ひとしのオカルト打法を踏襲しているのかもしれないが、高い確率で成功するのを目の当たりにすると、驚愕するものがあった。
その人の表情は、肌つやが良く、赤みが差しており、微笑をうかべて楽しそうにCR北斗の拳-剛掌-の島を闊歩していた。
「何か攻略法でもあるのか?」
「運が良い人が世の中にいるもんだな…」
「あんな楽しそうにしているから運を引き寄せられるのかな…」
そんな風に私はその人を度々見ていた。
それから、しばらくそのパチンコ店から遠のいていたのだが、ある時、久しぶりにそのパチンコ店に行く機会があった。
そして、そこで目を疑うような光景が飛び込んできた。
CR北斗の拳-剛掌-でとんでもないクソハマリをしている台をあの年配のユーザーが打っていたのだ。
何よりも驚いたのは、その人の姿そのものだった。
あれから1年も経っていないのに、10歳は年齢を重ねたかのような人物になっていたのだ。
初めは人違いかと思ったが、独特なパチンコの打ち方とデータ機の履歴を見る仕草から見て、同一人物で間違いなかった。
目から光を失い、顔の血色はドス黒く、表情は硬直して笑顔の履歴も損失しているようだった。
「やっぱり、そうだったのか…」
恐らくは、独自の理論が破綻した結果の姿だったと推測できる。いや、全てを目にしている訳ではないので、その光景が一時的なものなのかもしれない。
だが、一時的なものであっても、普通に人生を送っていたらあんな表情になることはないだろう。
紛れもなく、その人の姿は私自身の投影であり、私自身そのものだったのだ。
人からはきっとそう見られていたのだと強く感じた。
一方で、大変な中でも仕事を終えると、身体は疲れているのに、不思議と心地よい高揚感が湧いてくる。
夕食の味も、風呂の気持ちよさも、布団に入った時の安堵感も、ごく当たり前のことが幸せに感じてくる。
しかし、私の実感として鮮明に残っているのは、仕事の後にパチンコ店に入ると、入店した瞬間は解放感でとんでもなく気持ち良いのだが、打ち始めてしばらくすると、一気にクールダウンして、その高揚感はみるみる奪われるというものだった。
それは、収支に関係なく、勝っても負けても、仕事をして得た高揚感は消滅していった。
代わりに自身に還るのは、パチンコ・パチスロがもたらすドーパミン効果の別の感覚。
私は社会に出て何千日とこの繰り返しを味わったきた。
パチンコ店から家路に帰る足取りは重く、度々、タクシーで自宅まで帰るという愚行を平然と行っていた。
金銭感覚は麻痺し、お金の大切さなど微塵も考えていなかったのだ。
常に思考の中心はパチンコ・パチスロに支配され、当時はドーパミン(脳内麻薬)の事は知らなかったが、知らず知らずの内にそれを味わうことばかりを考えていた。
正常な人間の思考とはかけ離れ、その思考は具体的な行動に現れていく。
パチンコ・パチスロで人を殺せてしまう。
パチンコ・パチスロで強盗をしてしまう。
パチンコ・パチスロで人を裏切ってしまう。
過去にあったパチンコを起因とする犯罪などはネット上でも残っている。
多くのギャンブル依存症者は自己嫌悪に苛まれ、自暴自棄になり、己を殺そうとさえ考えている。
それは、両親への感謝も忘れ、子供への愛情も忘れ、生涯の伴侶さえも裏切り生きてしまうからだ。
パチンコ・パチスロをやめると、徐々に精神が癒され、正常な人間へと還ることができる。
草木の匂いを感じとり、季節の匂いをいとおしく思える。
人への感謝を思いだし、人に対して思いやる気持ちが芽生える。
生きていてよかった。
生まれてきてよかった。
ただ、単純にそう思えるのだ。
パチンコ・パチスロなんかで命を絶ってはいけない。
必ず断ち切れる日が来る。
必ず味方になる人が現れる。
あなたが悪いのではない。
あなたが弱いのではない。
生きていれば、何度だってやり直しが出来る。
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