教員として大切な事は -両親に見捨てられた教え子と向き合った最後に-
「松井先生!退職おめでとうございます…。本当にありがとうございました。」
定年退職する私を学校の門まで見送る教員は、そう言葉をかけてくれた。
今日、私は教員生活38年を全うし教壇から無事に降りることができた。
生まれ育った地域で教員に成る事ができ、その地で教職を務め続け、そして、その地で終える事ができるという、自分が望んだ人生であった。
晩年には校長にも就き、自らが理想とした教育を体現して、後世の教育者にも何かしらの形を残す事も出来て、悔いのない教員生活だったと思える。
そんな私も決して、順風満帆な教員生活だった訳ではない。
「松井先生…。理想ばかり追いかけていては駄目ですよ。現実も直視してください!」
そんな言葉を何度言われた事だろう。
先輩教員や同僚、後輩、多くの教員と真っ向勝負で真剣に意見をぶつけあってきた。
時には校長や教頭に噛みつくこともあった。
きっと、サラリーマンであれば芽が出ることもなく、会社の中で埋もれていったかもしれない。
教員という仕事だからこそ、そんな言葉に自分の信念を曲げることなく、頑固なまでに理想を貫く事ができたのだと思える。もちろん、全て自分が正しい考えという訳ではなく、間違っている事は非を認め、その都度、反省をしながら成長してきたつもりだ。
しかし、自分の教員としての核たる部分は一度としてぶれる事はなかった。
心が折れず、最後まで理想を貫くことができたのは、中には理解してくれる教員がいたこともある。
だが、一番の私の心の支えだったのは、生徒たちだった。生徒たちが喜びの中でも悲しみの中でも成長する姿に何度も励まされ、全うできたのだ。
そう、私の教員としての核は
「教員は生徒にとって最大の環境である」ということであった。
私は学校があって生徒がいるというような、傲慢な態度の教員を嫌い、教員が上で生徒が下というような考えかたをする教員とは妥協することなく闘ってきた。
生徒があって学校があるという生徒が主人公となる理想教育を掲げ、それを形にしようとしてきたのだ。
どうすれば、生徒たちがより成長する教育が出来るか、生徒たちにとって学べる環境を整え、耳を傾けることが何よりも重要なことだと信じてきた。
生徒と教員は上下関係ではなく、役割が全く違うのだ。生徒は学び、教員は人生の先人として教える。教員は先に生まれ生きてきたのだから、生徒たちが出来ない事を出来てあたり前な話しで、それに対して傲慢な態度を取る教員の姿勢には、怒りにも似た感情を抱いてきた。
今思えば、そういった怒りにも似た感情もまた、私の原動力となったことも事実で、何度となく悔しさにも似た涙を流してきただろう。
しかし、その涙を上回るほどのうれし泣きによって、全てが報われてきた。特に、6年生の担任になると必ず教え子を見送ることになり、その嬉しさは筆舌に尽くしがたいものがあった。これまでに多くの生徒を見送ってきたが、その中でどうしても忘れられない生徒がいたことを思い出す。
あれはまだ昭和の時代だった。
新年度に5年生の担任になった私は、すぐに一人の生徒を気に掛けるようになっていた。
授業中に注意力が低下し、休み時間も元気がない様子の生徒で、給食の時には他の生徒とぶつかることが度々あった。
給食の当番の生徒に、
「もうちょっと公平に盛り付けしろよ!」
「お前取りすぎだろ!」
と声を荒げ、その様子は今まで見てきた生徒とは違う異質な存在に見えた。
その後、家庭環境に何かあると思ったのは、保護者会に両親は出席することもなく、保護者面談でやっと会えた母親も我が子のことに無関心な様子が感じられたからだ。
その時、異変を感じながらも、一歩先に踏み込まなかったのは、その生徒が休むことなく登校してきたからで、今の時代であの状態で不登校になれば、行政機関を使って対処する必要に迫られると思える。
事態が変わったのは夏休みが明け、2学期が始まった日であった。
その生徒が登校してこなかったのだ。両親から学校を休む連絡はなかったので、休み時間や放課後に生徒の自宅へ電話をしたが、電話に出ることもなかった。
私は心配になり、学校が終わるとその足でその生徒の自宅へ向かった。玄関のチャイムを鳴らすが一向に反応はない。
しばらく、外から様子を伺ったが、人がいるような気配は感じられなかった。どうしたものかと悩んだ挙句、ドアに手を掛けると施錠はされていなかった。ドアを少し開け、声を掛けるが反応はない。おかしいと思った私は玄関にまで足を踏み入れると、目に飛び込んできたのは、台所で倒れている生徒の姿であった。
「おい!大丈夫か!!」
台所まで上がり、生徒に声を掛けると、薄っすらと目を開け、
「せ、先生…」
と消え入るような声で反応をした。
傍には固くなったパンのような物が転がっていた。その生徒以外に自宅には誰もいない様子であり、すぐにその生徒が食事すら取れていない事が分かった。
私はその生徒と2、3言葉を交わすと、スーパーに走り食品を購入して戻ってきた。
食事をして、しばらくすると、その生徒の状態も良くなってきて、普通に会話が出来るようにもなった。
日が暮れ初め電気を点けようとすると、電気は止められていた。水道を確認すると水は出る。
生徒との会話で、水だけを飲み1週間過ごしていたことと、その間、両親は帰ってきていない事が分かった。
私は財布に入っていた5千円を渡すと、
「明日から学校には来なさい。学校に来れば何とかなるから」
と伝え生徒の自宅を後にした。
帰り際、給食の際に感じた違和感の答えを理解した。
その生徒にとって、給食だけが唯一の食事だったという事だ。少なくとも、自宅でまともな食事は取れていなかったことが分かる。私が担任になってからは、その状態が長く続き、そして、夏休みという期間で給食すら取れない事で、登校できなくなったのだ。
私は、これまで、大人の身勝手な行動でどれだけ多くの子供たちが傷つけられてきたかを見てきたが、この時のショックは最も大きく、そして、涙が出るほどに怒りを感じた。
翌日、その生徒は登校してきた。朝のホームルームが終わると、自ら私の所まで来て、
「先生、昨日はありがとう…」
と言った。
私は両親がまだ帰宅していない事を確認すると、放課後、一緒にその生徒の自宅まで帰ることを約束した。その日は、授業の合間に何度も生徒の自宅へ電話を入れたが、連絡がつく事はなかった。
私はその生徒の両親宛に手紙を書き、放課後、一緒に帰宅すると、テーブルの上に手紙を置き、その生徒へ言った。
「先生の家へ行こう」
着替えだけ荷物をまとめるように伝えると、その生徒はすぐに取り掛かった。
出来ることなら、何事もなく解決してほしい、一刻も早く両親が手紙を読み連絡してくれる事を祈るような気持ちで待っていた。
だが、三日が過ぎても両親からの連絡はなく、とうとう私は次の手を打たなければならなかった。
それは児童養護施設へ入所させる続きであった。
「お父さんとお母さん、帰ってくるといいな…」
時折、そう呟く生徒であったが、両親のそれまでの言動を聴く限り、普通の生活を過ごしているようにも受け取れず、励ましの言葉をかけつつも、最悪の事態を考えざるを得なかった。
その後、その生徒は児童養護施設に入所し、二度と両親と再会することはなかった。
私にとって救いだったのは、施設から今までのように学校に通えることであった。
それまでの経緯を知っている私が、せめて小学校を卒業するまで気にかけてあげる事が良い事だと思ったのと、両親が戻って来た時に伝えないといけない事があると思っていたからだ。
児童養護施設に入所したその生徒は、環境が変わった事もあり、徐々に心も体も良い方向に回復していった。これまでのように、授業に集中出来ないような事もなくなり、他の生徒とぶつかるような事もなくなっていった。
私はそれでも両親が戻ってくる事を願っていたが、その事は叶わなかった。いや、もし両親が戻ってきたら、私はその後、教員という仕事を続けられていたかは分からない。それ位の腹を決めて、その生徒の両親とは向き合うつもりでいたのだ。
それからは、修学旅行も運動会もクラスが一体となって、一生に一度しかない、その瞬間を思い出にしていった。そこには、その生徒の笑顔もあり、皆で一緒に泣き、笑い、悲しみ、そして喜んでいった。
卒業まで残り1カ月を切ると、私は生徒たち一人一人と言葉を交わすかのように、これまでの思い出や今の気持ちを紙に綴り、毎日欠かすことなく、生徒分の印刷をして配った。
卒業式前日には、
「明日、皆と別れる卒業式。皆が立派に旅立つことが嬉しい!寂しさは先生が背負います!皆、胸を張って集まろう!!」
と綴った。
そして、卒業式の日を迎えた。
式典が開始するまでの間、教室に待機する生徒たちの前に立った私は、生徒たち一人一人に目をやり、
「皆に会えた事が本当に幸せだった…ありがとう!」
そう感謝の気持ちを伝えた。
教室から卒業式が行われる体育館まで引率する私に誰かが声を掛けた。
「先生!」
振り返る私の目には涙が流れていた。
「先生泣いてるよ!」
同じように泣く生徒や笑う生徒、皆それぞれ反応は違っていた。
それでいいのだと思った。皆、それぞれ違っていていいのだと。
生徒皆の顔を見渡しながら、ふとその生徒に目をやると、彼は涙を流していた。
体育館に着くと卒業式が始まり、卒業生は将来の夢を発言し、一人一人に卒業証書が手渡されていった。
そして、その生徒の順番になった。
「僕は将来、学校の先生になります!」
と言い、卒業証書を受け取った。
その後、その生徒は卒業式での将来の夢を叶えるかのように、中学から高校に進学し、そして大検を取り、教員になった。若くして、家庭を持ち、子供も大切に育てている。
そして、私が定年退職をする今日、学校の門まで見送りして、最後に感謝の言葉をかけてくれたのだ。
これほどの幸せな教員人生がどこにあるだろうか。
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