ジャグラーを癖のある打ち方で打つ人から聞いた「祖父と戦争」の話
子供の頃、夏休みになると、毎年の恒例行事のように祖父母の家に泊まりに行った。
祖父母は母方のほうで、母は6人姉弟の長女であったから、私の従弟も多く、夏休み前に従弟と連絡を取り合っては夏休みに合わせて皆で祖父の家に泊まりに行っていたのだ。
祖父母は一軒家に二人で住んでいたので、大勢が泊まりにきても問題はなかったようだ。ただ、1週間も過ぎれば、孫たちへの愛情よりも、子供たちの騒ぎに我慢の限界を超えるのか、よく怒鳴りつけられることもあった。
幼少期は3日間ほど泊まって帰ることが多かったが、小学校高学年頃からは夏休みの大半を祖父母の家で従弟たちと過ごしていたから、祖父母もたまったものではなかっただろうと、子供を持つ親になって思うところがある。
人生を振り返れば、その時の事が一番楽しかった事として鮮明に蘇る。
どこか顔立ちも似ている血が繋がっている従弟たちと心を許して遊べる楽しさや、祖父母の家があった環境がまた私にとっては新鮮だったのだ。
比較的都会で育った私は、田舎風景がとても好きだったし、従弟たちと網と虫かごを持って、カブトムシとクワガタの収集に出掛けることもあった。当時は昭和の時代だったので、コンビニなどもなく、その付近で唯一営業している商店にお菓子や飲み物の買い出しに行くことが楽しみの一つでもあった。
ただ、商店といっても、個人商店なので不定休で休むことがあり、そこそこの距離を猛暑の中歩いて行ったのに店が閉まっているという事は何度かあった。そんな時は皆で肩と落として帰るわけだが、戻るなり皆で水道水をがぶ飲みしている姿を祖父母は笑って見ていた。
夏休みのほとんどを田舎で過ごすと、他にも日常とは違った出来事も起り、田舎に来る前に髪の毛を切り忘れたり、床屋に行くタイミングを間違えると、「田舎の床屋」で散髪をしないといけない事態にもなる。私もそのせいで、自分のイメージとは随分とかけ離れた髪型にされたことも今では良い思い出となっている。決して田舎の床屋の腕が悪いということではなく、普段見慣れない子供が、突然やってきて上手にカットしてもらいたい注文が出来ずにいるのだから当然だったのだろう。おかげで、祖父母の家に戻ると皆に大笑いされ、その後、迎えに来た母親からも唖然とされたこともあった。
祖父母の家でそんな夏休みを過ごしていると、毎年のように従弟たちと観る番組があった。それは、終戦記念日に合わせた特集番組で「戦争によって多くの日本人が命を落としたこと」「いかに戦争が悲惨なものか」を訴えるような番組だった。
私たちが好んでその番組を観ていたわけではなく、私たちがテレビを観るタイミングに合わせて、その番組が自然と流れていたという表現が正しいのだが、今考えれば、祖父か祖母が私たちにあえて終戦番組を観るようにテレビのチャンネルを合わせていたのだろう私たちは、日常では感じないような衝撃を受け、ただ茫然とその番組を観ていた。
従弟の中には年少の子もいたが、膝を抱え私たちと一緒になって、時には涙を流しながら、その衝撃的な番組をじっと観ていた。その時はいつも、祖父は私たちの一番後ろに座って、一言も何かを発することなくテレビを観ているだけだった。祖母は一緒にテレビを観ることもなく、台所で食事の準備をしているか、他の家事をしているということだけを覚えている。
そんな毎年の恒例行事を楽しんでいたのだが、わたしが中学生になった頃だろうか、親戚のおばさんから祖父が戦争に出兵していた事を初めて聞いた。その話を聞いたのは、別の用事で親戚のおばさんの家に行った時のことだったので、その場で祖父に直接、戦争について聞く機会はなかったが、今度の夏休みには祖父に戦争でどんな事があったのか聞いてみようと思っていた。
そして、夏休みになり、いつものように事前に従弟たちと集まる計画を立てると、私たちは祖父母の家に集まった。親戚のおばさんに「祖父が戦争に出兵していた」という話を聞いてから、事あるごとに「今度聞いてみよう」とは思っていたが、それから時間が空いていたことや、従弟たちと顔を合わせると遊びに夢中になり、その事はどこかに飛んでしまい、祖父に会ってもすぐにはその事を触れずにいた。
私は、毎年繰り返してきたように、従弟たちと昆虫を取りに行ったり、商店に行って買い物をしたり、従弟の誰かが床屋に行って、変わった髪型で帰ってくるのを楽しく笑いあっていた。そんな毎年の事を繰り返し1週間が過ぎたころだろうか、目の前で終戦番組が流れ始めたのだ。
私は祖父が戦争に出兵していた事を思い出し、私たちの後ろに座っていた祖父の方に振り返るとこう聞いた。
「おじいちゃん、戦争に行っていたんでしょ?」
祖父は急な質問に驚いたのか、一瞬表情が変わったが、すぐにいつものような静かな表情に戻ると、
「黙って観ていろ…」
と言って、立ち上がってしまった。従弟たちもいつもと少し違う祖父に驚いてしまったのか、ただ黙ってテレビに視線を送るだけだった。
私は祖父がどこに行くのか目で追っていたが、祖父は玄関を出ると庭に出て、植木の手入れを始めていた。私たちがテレビを観ている居間から、ガラス越しに庭の風景は見えるのだが、植木の手入れをしている祖父の横顔はどこか寂し気な表情にも見え、私は聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないかという気持ちを抱いていた。
しばらくすると、祖母が台所から切ったスイカを皿に並べ、私たちに持ってきてくれた。
「あら、おじいさんは?」
祖母は祖父がいないことに気付いて私たちに聞いた。
「庭にいるよ…」
と私が答えると、居間からガラス越しに見える庭を見ながら、
「この時間に珍しいわね…」
と呟くように言った。
私は、その言葉でやはり戦争の事を聞いたことがいけなかったのだと思ったが、戦争というものが学校の授業で聞いたことがあるものの、どうしても昔話のように聴こえ、身近な存在ではなかったことから、「祖父が戦争に出兵していた」という事実をどうしても確認したいという気持ちが強かった。
そして、祖母に聞いてみようという気持ちになり、
「おばあちゃん、おじいちゃんは戦争に行っていたの?」
と聞いた。
祖母は表情を固まらせ、
「誰に聞いたの?」
と言った。
私は、親戚のおばさんから聞いたことを説明すると、祖母からは、
「もう、おじいさんには聞かないであげて…」
と言って、台所の方へ行ってしまった。それから、もうその事については触れてはいけない事なのだと理解し、その場にいた従弟たちからも祖父に戦争についての何かを聴く事もなかった。
月日が流れ、私は高校3年になり、修学旅行で沖縄に行った。学年で北海道か沖縄かの2択で投票が行われ、沖縄に決定されたのだ。私も沖縄に投票したのだが、それには深い理由もなく、なるべく遠くの地域が良いという事と今まで行ったことが無いという、単純なものだった。
沖縄は、それまでに感じたことの無い空気感で、クラスの友達とは思いの外多い自由時間を開放的に楽しんだ。そして、沖縄という場所が観光地と同時に、戦争の惨劇が繰り広げられた地でもあることをその時知ることになった。
ひめゆりの塔や終戦後も残された防空壕など見学し、当時の私たちと同じ年齢の人たちが若くして戦争の犠牲になった事を知ると、胸が締め付けられるような厳粛な気持ちになっていた。それまで騒いでいたクラスメイトも流石にその場では静かになり、その戦争の爪痕がいかに肌で感じられるのかが分かった。
3泊4日の修学旅行が終わろうとする、3日目の夜、学年全員が同じ場所で夕食を取ったのだが、食事の後、講演会が催された。講師に立ったのは、戦争時にひめゆり学徒隊として、日本兵の食事のお世話や負傷兵の看護にあたった女性の人だった。戦後50年が過ぎていて、当時で60代ぐらいだっただろう。
講師の話は、戦争の悲惨さがリアルに伝わるほど鬼気迫る内容で、目の前で何人もの友達が戦争によって命を落としていくのを体験していた。最後に「二度と戦争を起こしてはいけない」「戦争で犠牲になるのは若い人たち」という言葉は、胸中を貫くほどの衝撃があり、修学旅行でこの場所を選んで良かったという思いに至った。
私は修学旅行から戻ると、休日に祖父母の家に向かった。沖縄で買ったお土産を渡すためだった。
祖父母の家に着き、お土産を渡すと祖父母は喜んでくれた。そして、私が話す沖縄での修学旅行の様子をじっと聞いてくれていた。だが、3日目の夜に催された講演会の話になると、祖父の様子が変わった。私が言った講師の名前を何度も確認してきたのだ。
祖父は、
「生きていたのか…良かった…」
と言葉少なげに呟くように言い、目には光るものがあった。
そこから、祖父は何か感慨に浸るように静かにしていて、私の沖縄での話が終わると、以前と同じように庭に出て植木の手入れを始めていた。
その後、祖母から祖父は沖縄の戦争に出兵していた事を聞いた。当時は沖縄以外の地域から大勢の青年が沖縄での戦争に出兵していたのだ。その一人が祖父であったのだ。戦争での悲惨な体験は全て祖母には話していないようであったが、命を落としてもおかしくない重傷を負った時、ひめゆり学徒隊の看護によって命を救われた事は祖母に話していたようだった。
祖母もそのひめゆり学徒隊の人の名前まで憶えていなかったが、私が講師の名前を出した時に何度も名前を確認する祖父の様子から、きっとその人が祖父の看護にあたり命を救ってくれたのだろう。
「生きていたのか、良かった」という言葉は、その後命の恩人と連絡を取る手段もない事もそうだが、戦争というものを思い出したくない祖父の気持ちと、当時その場にいた人たちをいつまでも気遣っている祖父の気持ちが共存しているように思えた。
戦後、祖母と結婚し幸せな家庭を築き子供にも恵まれ、多くの孫たちに囲まれ、順風満帆の幸せな人生に見える祖父にも戦争という傷跡はいつまでも深く残っていたのだ。自分の言葉では戦争の体験を語らなかったが、終戦番組を孫である私たちに敢えて見せることによって、何かを伝えたかったのだろう。私が修学旅行で沖縄に行ったことも、それは必然だったのだと思うのだ
コメント