親から離れて暮らす子どもたちはどんな困難を抱えているのか。乳児院、児童養護施設、里親家庭、養子縁組家庭等で暮らした経験をもつ人々にインタビューをしてきた、日本女子大学人間社会学部教授の林浩康さんは「子ども期に養育者に十分に甘えられず、依存体験を十分に積めないと、育ちづらさを抱えて青年期を迎えることもある。しかしながら、その後の人生において、家族ではない人との出会い、つながりにより、大きく人生が好転する人たちもいる」という――。
※本稿は、林浩康『里親と特別養子縁組 制度と暮らし、家族のかたち』(中公新書)の一部を再編集したものです。
筆者はこれまで、親から分離され乳児院、児童養護施設、里親家庭、養子縁組家庭等で暮らした経験をもつ方々にインタビューを行ってきた。その中から、ここでは施設や里親家庭で暮らす以前の生みの親との生活状況について語られている部分を抜粋し、その体験事例をまずは共有したい。名前はすべて仮名である。
義治さん(35歳)は、両親の離婚後、母親と暮らすが養育が困難となり、4歳のときに児童養護施設に入所。高校卒業まで生活。
両親が帰ってこず、ずっと泣きながら待っていた記憶がある。父親のスクーターの前に乗ってパチンコによく連れていかれ、床に玉が転がってたのを覚えている。両親は頻繁にけんかし、寝たふりをして言い合っているのを聞いていた記憶がある。父親は酒をよく飲み、怖かった。
両親が別れた後、母親と東京に出てきてからも、母親がずっと父親のことを悪く言い続けるので、そういうイメージしかない。でも実際に父親から殴られたりはしなかった。母親は夜の仕事に義治さんを一緒に連れていき、グラスにポッキーが入っているのを見て不思議に思った記憶がある。母親が義治さんを育てることが次第に困難となり、児童養護施設で生活するようになった。
浩二さん(23歳)、大学4年生。母親について記憶にあるのは、家を出ていくときの姿だけである。その後父親は覚醒剤で捕まり、父方の親族の家を転々とする生活で、父親とはほとんど一緒に生活しなかった。親族は朝鮮学校の教育を受けていたため、日本の教育を受けさせたくないという思いが強く、小学校には通っていなかった。
中学1年生のときに祖父がやっていた造園会社が倒産し、そこで働いていた父親が失業した。その後父親は就職せず、生活保護を受給しながら父と妹の3人で生活するようになった。父親の金の使い方が荒く、水道、電気、ガスを全部止められて、父親に公園の水をくんでこいと言われ、カセットコンロでお湯を沸かしてお風呂に入る生活であった。ご飯も食べられず、無人販売の野菜を盗んだり、父親から友達やおばさんから金を借りてこいと言われたりしたこともあった。
中学校では居場所もないし、勉強もついていけないので、中学1年生の頃から学校へは行かなくなった。父親が夕方から深夜までお酒を飲んでいて、正座して父親の隣に座っていなければならなかった。その間はご飯も食べられなかったし、トイレにも行けず、ただそこに座って愚痴を聞かされるとか、殴られるとか、そういう生活がずっと続いていた。
父親が寝静まってから残った物で飢えをしのぐという生活であった。
義治さんは幼少期、母親には夜の仕事に、父親にはパチンコに連れていかれた。通常子どもが出入りしないこういった場に身を置いていたときの気持ちを話すことはなかった。また両親の言い合いを寝たふりをして聞くというのは、子どもにとっては過酷な体験であろう。
浩二さんは中学の頃から父親の酒の相手をさせられ、暴力も受けてきた。親とケア役割が逆転し、感情交流を通した依存体験も十分になされなかったであろう。
林 浩康(はやし・ひろやす)
president オンライン(2024年11月18日)
日本女子大学人間社会学部教授
大阪府生まれ。北星学園大学助教授、東洋大学教授などを経て、現職。専門分野は社会福祉学。著書に『児童養護施策の動向と自立支援・家族支援』(中央法規出版)、『子ども虐待時代の新たな家族支援』(明石書店)、『子どもと福祉』(福村出版)など。
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