子供の頃に髪の色がみんなと違うとよくからかわれた。
俺はまだ良い方で弟の方は金髪に近い色で、中学に入ると教員たちから目をつけられ、地毛であることを毎回説明しないといけないことに苦慮したようだ。なぜ、髪の色が皆と違うのかを知るのは成人してからになる。母親からロシアの血が混ざっていることを教えられた。確かに母親は秋田の生まれで、俺たちと同じように、どこか日本人とは違うような雰囲気があった。両親とも日本の生まれではあるが、祖父がロシアの人であったらしい。
その血筋が原因では決してないが、俺は、周囲から揶揄されて生きてきた影響からか、人とはだいぶ違った生き方をしてきた。血筋が原因とは思わないのは、現に弟は一流会社に就職し、家庭をもって、まともな人生を歩んでいるからだ。俺が自分自身を疑い始めたのは成人を迎えてからで、人と会話することは苦痛ではなかったのだが、相手の目を見て話ができなかった。それまで意識したことはなかったが、高校卒業後にフリーターとして働く中で、職場の人らから何度も注意をうけるようになって、その事に初めて気づいた。
自分で言うのもおかしいが、俺は根が真面目で、仕事で手を抜くような事は今までしたことがない。
だが、相手の目を見て会話ができない事が影響してか、上司や同僚、ついには年下の連中からもナメラレルことが度々あった。俺にだけ、皆が嫌がるような残業やシフト交代を言ってくるような状況が毎度のようにあり、年下の連中からも、下手に出るような雰囲気を出しつつ、無茶なシフト交代をお願いされたりしてきた。正月やゴールデンウイークなど、どれだけ働いただろうか。
彼らが、陰で俺の事を馬鹿にしている事は知っていたが、俺は時給制の身であることから、金が手に入るなら、「ま、いっか」とそんな事を右から左に流してきた。ただ、匿名掲示板などに俺を揶揄するような事を書き込まれるような事件が多発した時は、法的手段を取って、そういう輩は排除してきたし、俺が金を貯めている事を知ると、利息を付けて返すからと金を借りに来て返済しないような連中には、自宅に押し掛けてでも取り立てを行ってきた。要するにただのお人よしではないのだが、周囲からは「変わった奴」というレッテルは貼られてきたのだ。
しかし、そんな性格もあってか、おかげで俺は20代の頃には貯金が900万円近く貯まっていたのだ。
もともと、節約家というかケチというか、他人に何かを奢るような事はしないし、買い物をするにしてもセールや特売日を狙い、電車を使い遠出をしてでもより安いものを購入していた。ネットが普及していない時代にはフリーマーケットの場所を探しに、自転車を使い一日何十キロと走りまくった。
フリーターという立場でも900万円もの貯金が出来たのは、誰よりも働き、無駄な出費はせず、より安いものを探してきたからだ。
そして、もう一つ要因をあげるなら、ほとんど人間が俺をいいように扱うが、中には良心を持った人間がいたということだ。そんな姿の俺に哀れみを持つのか、あるいは、労う気持ちなのか分からないが、食事をご馳走してくれたり、休憩時間に飲み物を差し入れてくれたり、格闘技の観戦チケットを無料でくれたり、ありがたい事に何かしらの恩恵を受けてきた。そういった事が重なったのだと思う。
「世の中には見ていてくれる人もいるもんだな…」
それが俺の社会での一つの悟りのようなものだ。そんな俺の日常に衝撃が走ったのは、以前、バイト先で知り合った彼女が別れてから1年後に急に自宅に訪れてきた日の事だ。彼女は、母親と俺の自宅を訪ねてきた。そして、手には赤ん坊を抱いていた。
彼女は俺と別れた後に妊娠をしている事を知り、子供をおろすことを選択せずに産んでいたのだ。自分の体の事も考え、子供はおろさなかったという。そして、自分が育てることも一時は考えたが、両親とも相談する中で、俺に責任を取って赤ん坊を引き取ってほしいという決断をした。赤ん坊は生後、3ヶ月ほど経っていた。
俺はその赤ん坊の顔を見ると、その子が俺の子ではないと否定することはなかった。それ程、俺に似ていた。それと同時に、例えこの子が俺の血を引いてなかったとしても、彼女がその子を立派に育てることは到底不可能ではないかと思い、彼女の望みを全て受け入れたのだ。
自分のお腹を痛めてまで産んだ子を簡単に手放すことは信じられなかったが、それ以上に、この子の将来を考えて、本当にその選択をしたのかという疑問。そして、相手である俺には何の相談もなかった、彼女の両親への不信感も拭えなかった。そこから、俺は実家に戻り、母親の手も借りながら子供を育てることになった。もともと子供は好きだったし、何よりも俺が心を許せる相手が出来たことが嬉しかった。子供はみるみる成長していき、歩けるようになってからは、自転車のカゴに子供を入れ、いつものようにセールをしている店を回りまくっていった。しょっちゅう警察官に呼び止められ注意を受けたが、俺はその行動を改めることはなかった。取り敢えず謝ってその場を濁す俺に対して、子供は笑顔で俺を見つめていた。
ただ、日頃の俺の行動や様子が近隣の人らからは異様に見えるようで、母がいない子供を俺が育てていることなどもあってか、いつの頃か児童相談所の役人が定期的に自宅を訪問してくることが増えた。やましい事など一つもないし、子供に虐待など一度もしたことがないが、近隣住人も児童相談所の役人も俺に対して疑いをもっているようだった。唯一、救いだったのは俺が実家で子供を育てていたことだろう。母親の存在のおかげで、そういった疑念を少しは払しょくされ、厳しい追及にまではいかなかった。
子供が4歳になる頃、俺は子供を保育園へ入園させることにした。その年齢になるまでは俺も仕事を減らし、貯金を切り崩したりしながら生活をしようと思ってきたからだ。母親はパートをしていたし、俺もそろそろ元のように稼がないといけないと思っていた。保育園へは無事入園でき、毎日も送り迎えが日課になった。子供も友達がたくさんでき、友達と遊べることに喜んでいる様子で安心していた。
だが、一つ問題があったのは、俺が元のように働く環境が様変わりしていたということだ。急激に変化する社会の中で、俺が希望どおりに働ける環境はそこにはなかった。やむなく、俺は夜勤の仕事も入れるようになった。夜勤の仕事が終わり、自宅に戻り子供を保育園へ送り届けるという習慣になったのだ。思いのほか、そのリズムは体に応え、いつの頃からか俺は仕事が終わり、自宅に着くと酒を飲むようになっていった。それが災いしてか、子供を保育園へ送り届ける際に、他の園児の保護者から「酒くさい」「子供に悪影響」などのクレームが保育園側に入るようになった。
保護者から直接、何かを言われることは一度もなかったが、俺を軽蔑した目で見ていることは気づいたし、こちらから挨拶をしても、あからさまに無視をされるようにもなっていった。何度か保育士さんから遠回しに柔らかく注意をされることもあったが、俺は「すみません」と謝りはするものの、その行動を改めることはなかった。そんな事が度々繰り返していたある日、子供を保育園へ送り届けると園長が俺のところまでやってきて語気を強めながら言った。
「お父さん!また飲んでいるんですか!?いいかげんにしてください!!」
俺はその言葉そのものよりも、その言葉に乗った感情に怒りがこみ上げた。俺は園長を睨みつけると、これまで人に表したことのない感情をぶつけて言った。
「結構です!もう子供は連れてきません!」
決して酒に酔った勢いで言ったのではない。これまで、どんな事があっても、人と争うような態度や言葉を発したこともない。ただ、その時は我慢がならなかった。俺は気づいていた。日増しに子供から笑顔が失われていることを。今まで遊んでいた保育園での友達から何かを言われている様子であったし、保護者も俺の子供と遊ばせないように言っていたようだった。夕方に迎えに行くと、教室で一人遊びながら俺を待っている事も多くなっていた。子供は俺を心配させないためか、その事を言いつける事もなければ、保育園へ行くことを嫌がる仕草も見せなかった。ただ一人、幼い子供が耐えているようにさえ見えた。いつも、自転車の後ろで
「パパ、今日も楽しかったよ…」
と俺に話しかけるが、その言葉とは裏腹に子供からは笑顔が少しづつ失われていたのだ。それまで、変わった人間と言われ生きてきた俺は何を言われてもいいし、何を言われようが耐えることは出来る。だが、何の関係もない子供に対して、何かを仕向けるのは筋違いではないかという感情が園長の言葉で爆発したのだ。
俺は子供を自転車の後ろに乗せると、何かを喋っている園長をしり目に保育園を出た。子供は黙って自転車を走らせる俺を心配してか、何かを話しかけてくる。
「ねえ、パパ…。ねえパパ…。」
途切れ途切れに話しかけながら、「僕は大丈夫だよ」という事を必死に訴えているようだった。そして、
「もう、保育園には行かなくていいの?」
と言ってきた。俺はその質問に答えることなく、ただ、やり場のない感情をぶつけるように自転車を走らせた。しばらく自転車を走らせると、目の前にコンビニが見えた。俺はコンビニに自転車を停めると、子供の手を引き店内に入り子供が好きなお菓子をカゴいっぱいに詰めた。いつもと違う行動に子供は唖然とする様子だったが、無言で次々にお菓子をカゴに入れていく姿が面白かったのか、次第に笑顔になり、ケラケラと声を出して笑いだした。そんな子供の姿に俺もおもわず笑ってしまい、二人で笑いながらカゴにお菓子を詰めた。そして、ATMから預金を下ろすと俺は子供に言った。
「遊園地でも行くか?」
子供は嬉しそうな笑顔を浮かべると、その場で何度もジャンプを繰り返した。コンビニの外に出た俺は、携帯電場で職場に仕事を休むことを伝えた。それは私にとって生まれて初めての欠勤だった。
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