パチンコ屋で出会った人から聞いた深イイ話⑨【ギャンブル依存症体験記 番外編】

https://ganbulingaddiction.com/2021/11/19/another-story/(新しいタブで開く)依存症体験記

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今日、母が亡くなった。

母の最期はとても安らかだった。

私が物心ついた頃から、母は女手一つで私を育ててくれた。

父の存在は聞いた事がなかった。幼い時は母に聞いていたのかもしれないが、記憶にはない。いつの頃か父がいない事が当たり前のように、父の事は触れないように、生きてきた。

祖父や祖母とも会ったことはない。母には兄弟がいない事は聞いた事があり、それは記憶に残っている。だから、親戚付き合いなどもこれまでなかった。

母は私だけが家族だったし、私も母だけが家族であった。たった二人の家族だった。

社会に出て世の中の事を知れば知るほど、母がどれほど苦労して私を女子大まで行かせてくれたのかが痛いほど分かる。きっと、頼る人間もいない中で自分がやりたいことも我慢し、買いたい物も我慢し、自分の人生を私に捧げるように必死に私を育ててくれたのだろう。思い返せば、母はいつも忙しそうだった。それでも、学校の授業参観などには必ず来てくれていた。

振り返ると、母は優しい目で私を見つめてくれていた。運動会の時も、遠くから私を見つめてくれる温かい眼差しと笑顔がそこにはあった。

決して、人前に積極的に出るタイプの人間ではなかったが、遠くからでも私を見つめてくれる、そんな母であった。

母は友達のお母さんとの交流などは一切していなかったようだったし、きっと仕事で忙しいのだと、どこか他の友達のお母さんとは違う母に、寂しい気持ちを持つこともあった。

今思えば、母にそんな余裕はなかったのかもしれない。精一杯の中で私を育て、そして父がいない事で私が友達からいじめられないように、母なりの気遣いがあったのかもしれない。

そうやって、母はいつも父がいない事を言葉にしなくても「ごめんね」というように、気遣いで形にしてくれていた。私もそんな母が好きで、「私は寂しくない」といつも母を喜ばせようと努力してきた。

友達の家族のように、夏休みや冬休みに旅行に行くような思い出は一つもないが、一年に一度は、二人で遊園地などに行くような事はあった。高い物は買ってくれなかったし、私がねだるような事もなかった。子供ながらにも、これを買ってほしいという事は母を傷つける事だと思っていた。

だが、どこかに二人で行くときは必ず写真を撮り、それを印刷して100円ショップで買った写真たてにいれて飾ってくれていた。

時々、飾られた写真を見ては、笑顔で写る母と、そして、屈託のない笑顔で写る幼い自分に、他人の家族と同じ幸せが私にもあるという、安心感を覚えていた。だから、私に反抗期という時期はなかった。友達からも「本当にお母さんと仲が良いよね」と言われるくらい、友達のように接していた。買い物に行くときも、ゴミ捨てに行くときも、食事を作る時も、寝るときも、母の隣に私はいた。

「早く大人になり母を助けたい」

そんな思いがあり、私も一生懸命に生きた。いつからか学校から帰る時は走って帰るようになり、早く家に帰り、誰もいない家の鍵を開け、自分が出来る事を一生懸命にやる習慣がついていた。

走って帰っても何かが大きく変わるわけではなかった。でも、走ることできっと私自身を勇気づけていたのだろう。家に帰ると、私は母が仕事から帰るまで、宿題をやったり、部屋の片づけをしたり、コップを洗ったり、気づく事は何でもしていた。そんな私に母は「ありがとう」と言葉をかけてくれた。私は部屋が綺麗になっている事を気づいてくれる母に優しさを感じ、その笑顔のおかげで成長できたのかもしれない。

私は高校を卒業した後、就職するつもりだった。大学に行く事は考えたこともなかった。すぐに働いて、母を楽にさせたい。それだけだった。

そんな私に母は珍しく強く大学に行く事を勧めてきた。どうやら、高校の担任が母に推薦入試の話をしたようだった。困惑した私だったが、母は「学費は心配ないから」と強く進めてきた。

数日考え、担任の教師とも相談する中で、私は奨学金制度を使い、大学に行く事を決意した。担任の教師から私の学業が優秀なので、入学金や学費は低減されるかもしれないと話があった事も、後押しとなった。

無事、大学にも入学し、それから4年間は学業とアルバイトの日々で、他の友達のような賑やかなサークル活動も合コンも恋愛も、私には無縁だった。大学の講義の後、アルバイトに向かい、アルバイト先からは走って家に帰る。そして、これまでのように、仕事から帰る母を待つ間、家事・炊事・洗濯をする。

私が成長するに従って、母の代わりを出来るようになる事が、私にとっては幸せだったのだ。

母が私の通う大学に来たのは2回だけだった。入学式と卒業式の2回。入学式の日、母はこれまで以上に笑顔で私を見つめてくれていた。卒業式の日、母に笑顔はなかった。母は泣いていた。

「おめでとう」と私の手を握るその手は温もりに溢れていた。私もこみ上げるものがあり、気づけば二人で泣いていた。二人でキャンパスを歩き、最後の門を出る横には桜の木が満開に咲いていた。桜の木を見つめ、私は母に「子供の頃にお母さんと桜の木の下でサンドウィッチを食べたね」と思い出話をすると、母は桜の木を見つめ静かに頷いていた。

卒業後、地方転勤のない職場を選び、私は就職した。母と住む自宅から通勤できる事が第一条件だったので、本当に興味のある仕事なのかは分からなかったが、私にとっては母と生活することが、一番重要なことになっていた。

社会に出て、ようやく親孝行ができると、初めてのゴールデンウイークには母と初めての宿泊旅行に行こうと計画していた。インターネットで検索してみたり、パンフレットを手にして、どこが良いかを考えていた。母には驚かせたかったので、旅行の事は内緒にし、仕事の休みだけを確認して、密かに計画をした。母に何かを内緒にして行動する事は初めてのことだったので、どこか後ろめたい気持ちと、母の驚く姿を想像しながら、子供のイタズラのようにワクワクした気持ちの半分半分で毎日を過ごしていた。

そんな矢先であった。私のスマホに母の職場から電話がかかってきた。

「お母さんが仕事中に倒れ、病院に搬送されました」

今朝、いつものように普通に会話していた母が病院に搬送された事を信じられなかった。何かの間違い電話ではないかと初めは疑ったが、着信履歴は確かに母が働いている職場の電話番号であった。

私は上司にその事を伝えると、上司は後の事はいいからすぐに病院に行きなさいと言ってくれた。会社を出て、タクシーを拾うと、搬送先の病院に急いだ。病院に着くと、母は集中治療室で治療を受けていた。看護師さんから、病院の待合室で待つように伝えられ、どれくらいの時間が経ったかは覚えていない。正直、職場で母が倒れたと伝えられてから病院に来るまでの記憶はほとんどないのだ。それくらい、衝撃が大きかったのだと思う。私にとって何か大きなものが失われようとする、その衝撃があまりにも大きかったのかもしれない。

医師が遠くから私に向かって歩いてくる表情で、大変な事になっている事は感じた。医師は母が心筋梗塞で倒れたこと。予断を許さない状況であることを私に告げた。他に親族がいたら呼んであげてくださいとも言われたが、私はその言葉がダメ押しになった気がして、他に親族がいない事を答える余裕もなかった。

放心状態でソファーに座る私を見て、医師は全力を尽くしますのであなたも最後まで諦めないでくださいと励ましてくれた。

夜になり、病院にも人影もなくなった頃、私は上司にメールを送った。その時間に電話をする事は失礼だと思ったのと、電話でまともに言葉を発する事が出来ないかもしれないという不安もあった。メールでそれまでの経由と状況、明日は有給休暇で会社を休ませてほしいという旨を送った。すぐに上司から返信があり、励ましの言葉と仕事を休むことを許可する事がそこには書かれていた。

他の人なら、そこから親族などに電話をして、駆け付けた親族と会話をして気を紛らわす事もあるのかもしれないが、その時の私にとって会話をする相手はいなかった。だから、私は祈っていた。母の無事をただ祈っていた。そして、母が何を思っているかを想像しながら、母と心の中で会話をしていた。

色んな思い出が私の頭をよぎり、そこにはいつも母の優しい眼差しがあったことを思い出していた。普通に生きてきていたなら忘れることもあったかもしれない、だが、母が一年に一度、二人で写真を撮って飾ってくれる写真によって、私の幼い頃からの思い出は強く鮮明に記憶に残してくれていたのだ。

時間が経つにつれ、私の心には母への感謝に満ち溢れていた。何の不自由もなかったじゃないか。何の不幸もなかったじゃないか。母は人生の幸せを教えてくれたじゃないか。いや、母と共に幸せな人生を歩んだんだ。いつのまにか、私の目には涙が溢れていた。そして、母が生きている間に伝えなくてはならない事があると思っていた。せめて、その機会だけでも最後に与えてほしいと私は祈っていた。

明け方になった頃、病院の待合室でただ一人待つ、私のところへ看護師さんが足早に駆け寄ってきた。

「お母さんの意識が回復しました!すぐに来てください!」

私は急いで看護師さんの後を追った。母はいまだ集中治療室の中であったが、弱弱しくも目が開いて意識があるようだった。

「お母さん!」

そう呼びかけると、母は視線だけを私の方に向けた。口には呼吸器が付けられていたが、看護師さんがそれに気づいて外してくれた。母は何かを呟くように口を動かしたので、私は口元に耳をやった。

母は「もう、走って帰って来なくていいよ…」と途切れるように言葉を発した。

一瞬なんの事か分からなかったが、母は私が幼い頃から走って家に帰る私を知っていたのだ。私は再び溢れる涙を拭いながら、母の手を握り、母へ感謝の言葉を伝えた。母の手は温かった。大学の卒業式に握った母の手の温もりと変わりなかった。一つ違う事は母の目が涙ではなく、いつもの優しい眼差しであったことだ。私を育て、幸せを与えてくれた母の優しい眼差しだった。

母との会話はそれが最後となった。その後、母の容態は悪化し、先ほど、母は病院で息を引き取った。天涯孤独という言葉があるが、私は決して孤独ではない。なぜなら、私の心にはいつも母がいる。これから、私の人生は心の中にいる母と共に幸せに満ち溢れた道を歩む。人生はどんな事だって幸せに変えてくれる事を母が教えてくれた。

依存症体験記
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